か弱きエレジィ


ある日の夕食時、母がやけに真剣な顔つきで「ちょっとお願いがあるんだけど」と言うので、伊武深司は一体何を今から言われるのか、どんな深刻な話が飛び出してくるのだろうかと一瞬思考をフリーズさせた。

肉じゃがに伸ばしていた箸を一旦戻して「なに?」と聞いてみれば、下の妹達の事だと言うので、少しほっとする。どうやら家庭崩壊しそうな話ではないらしい。 聞けば最近、妹達の通学路で変質者が出没するのだそうだ。
どんな年でも女性と言うのは危険な目に合う可能性があるものなのか、と思いながら深司は再度肉じゃがに箸を伸ばす。 それで、しばらくの間は妹達を迎えに行ってはくれないか、と言うのだ。また、箸が止まる。深司の頭に浮かんだのはもちろん、テニスのことだった。
小学校低学年の妹達の下校時間は早い。部活を終えてからではまず間に合わないので、そうすると深司は授業が終わったら素早く妹達を迎えに行くことになる。妹達は大事だ。けれどテニスの部活も大事だ。
迷う深司の気持ちを察したのか、二人の妹は「だいじょうぶだよ」「おにいちゃん、迎えはいいよ」と言ってくれるのだから、余計にいたたまれない。
しかし妹達自身がいいと言っても親としては当たり前だが心配で、母の「今週だけでいいから!」と言う言葉に、深司は考えた末にやがて、こくりと頷いた。

朝練の終わりごろにタイミングを見計らって事情を話すと、同じ妹がいる立場だからだろうか、橘は「それは心配だろう。深司、部活の事は気にするな。妹を迎えにいってやれ」と快く部活を休むことを承諾してくれた。
大変だなぁ、なんて呟く神尾がなんだか憎らしくて、深司は思わず「あーぁ、ずるいよなぁ。俺だって練習したいのにさぁ…」とぼやいて神尾を困らせた。
それでも妹達が心配じゃない、と言うわけではない。しかしこのテニスをしたくても出来ないもどかしい気持ちがあと5日も続くのかと思うと、深司には憂鬱でしかなかった。
昼休みになっても憂鬱は続き、自分の席で窓の外なんかを眺めながらたそがれていると、携帯が急に震えだした。バイブレーションにうっとうしさを感じながら携帯を開いて見ればそこには千石からのメールが一件。
内容は「今日も迎えに行くから一緒に帰ろうね」の一言。
こんな風に、千石はしょっちゅう深司を迎えに来る。迎えに来るのだってそう簡単ではないし、一緒にいれる時間だって長いものではない。無理に来なくてもいいと深司が言っても、千石はただ笑って「そうしたい」と言うので、深司はそれ以上何も言えないのだ。
深司はしばらくその画面を見つめた後、「来なくていいです」と余りにも短い返事を送って携帯を閉じた。
チャイムが鳴って他のクラスに遊びに行っていたクラスメイト達が次々と帰ってきて、やがて教師が入ってきて授業が始まる。 深司は途中何度も震える携帯の存在をすっかり忘れてしまっていた。
すべての授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、深司は足早に席を立って廊下へと飛び出した。そのまま小走りに階段を駆け下りる。早く行かなければ妹達が待っているだろうし、さっさと家まで送り届けてしまえさえすれば、もう一度学校に戻って部活に途中から参加することも出来るだろうと思っていたのだ。 後ろから石田達が「じゃあなー」なんて声をかけている事にも気付かずに、深司はやがて走り出した。


「お兄ちゃんだ」
「お兄ちゃんだ」
妹達はきちんと校門の前で深司を待っていた。頭を撫でてやれば嬉しそうに目を細める。彼女らは深司の考えを簡単に察した。自分の兄が何よりテニスが好きなのを知っているから、寄り道したいなんて言わずに深司の手を取って「早く帰ろう」と笑った。
深司を真ん中にして三人で並んで手を繋いで歩き出す。深司自身も少し前まではずっと通っていた帰り道がなんだかやけに懐かしい。あの頃は見上げていたばかりだった一本の木も、今では簡単に手が枝に届いてしまう。
「今日の給食のパンはおいしくなかった」
「でもちゃんと残さず食べたよ」
えらい?と聞くので、えらいえらいと呟くと妹達はまた嬉しそうに笑う。そんな他愛のないやりとりをしていた深司は前方から走ってこちらに近づいてくる人間の存在になかなか気がつかなかった。
「い、伊武君っ!!」
よく目立つ派手なオレンジ頭の千石がそこにいた。ゼェゼェと苦しそうな息で、ここまで全力で走ってきましたと言わんばかりの様子で、今にもその場にしゃがみこんでしまいそうに。
「千石さん、」
なにをやってるんですか、と訊けば、携帯!と叫ばれたのだけれど、主語が抜けているその単語だけでは深司にはすべてを理解することはできなかった。首をかしげる深司に、千石はまだ整わない息で「携帯、何度も連絡したんだけど…!」と言い切ると、とうとうその場にしゃがみこんでしまった。
「携帯…?」
そう言えば、午後からは携帯を一度も開いていない事を思い出して深司は妹と繋いでいた手を離すと、ズボンの後ろのポケットに手をやる。しかし、そこに携帯は無い。あれ?と思っていると、小さな手が深司の携帯をそっと差し出した。
「お兄ちゃん、落としたから、持ってたの」
「そう」
いつの間に落としたのだろうか。そしていつの間に妹は拾っていたのだろうか。そんな疑問はあったが、とりあえず携帯を開く。着信履歴は千石が何件も続き、その中には神尾からもあった。メールボックスにも何通もメールが来ていて、一番最後に来ていた神尾からのメールを開けば「千石さんがお前と連絡取れないって言ってるけど、どうした?ちゃんと連絡しとけよ!」と言う内容の文章が表示されて、深司はどうやら千石は自分を必死になって探していたのだと理解した。
「なんか、来なくていいって言うし、驚いて電話してもメールしても出てくれないし、慌てて不動峰まで行ったらみんなに伊武君は帰ったって言われるし…」
「すいません、妹達を迎えに…」
「いや、それは神尾君から聞いたからもうわかってるんだけどね」
ようやく息が整い始めた千石はゆっくりと立ち上がる。その顔は困ったような笑顔で、深司は彼が無理をして笑顔を作ろうとしているのがわかった。
「びっくりした。来なくていいって言うから、何か怒ってるのかと思った」
千石の言葉に、深司は途端に自分のメールを思い出した。何の気なしに送ったあの言葉足らずのメールが千石を不安にさせたのだ。
つい先日、神尾に言われた言葉が頭の中に浮かぶ。 曰く、お前のメールは絵文字も顔文字もないし、簡潔なのでそっけない風に見えたり、怒ってるようにも取れるから気をつけたほうがいいと。 別に、そう思うのならばそう思えばいいとあの時深司は神尾に言ったのだ。けれどそれを、後悔した。
「…すいません、もっとちゃんと言えばよかった」
「ううん、いいよ!伊武君に嫌われたんじゃないってわかったし!あと、可愛い妹さんも見れたしね!ほんとにかわいいなぁ。おれ、千石清純って言うんだよ。よろしくね」
千石の顔にいつもの笑顔が戻ったことに深司はほっと安堵の息を吐く。妹達は突然現れた見知らぬ人間に戸惑っているらしく、さっと深司の背中に隠れてしまった。それから二人して深司の両手をくいくいと引っ張る。
「お兄ちゃん、この人不良?」
「本当にお兄ちゃんのお友達?」
この発言は深司を驚かせただけでなく、千石にもショックを与えた。まさか不良扱いをされるとは思っていなかったのだろう、千石が目に見えてへこんでいる。
「どうして?」
深司が尋ねると、二人は顔を見合わせ、「ねぇ?」と頷き合った。
「だって、あたまがオレンジなんだもん」
確かに千石の頭の色は派手だ。時折深司の家に遊びに来る不動峰の仲間達はそんなに派手な髪色の持ち主はおらず、だからこそ妹達には珍しいのだろう。警戒しているような目で千石を見つめる二人の頭を、深司はそっと撫でた。
「千石さんは、悪い人じゃないから」
妹達はふうんと、納得したのかしていないのか、よくわからない返事をした。信用しきれないが兄がそこまで言うなら…というところだろうか。 それよりも千石は深司の口から出た言葉に感動しきっていた。
「伊武君が、俺を褒めてくれたっ!!」
「…悪い人じゃないって言っただけです」
「次はぜひとも、千石さんは俺の好きな人ですって言って欲しいな!」
深司は無言で妹達の手を取ると、千石を置いてさっさと歩き始めてしまった。振り向きもしない三人を、慌てて千石が追いかける。
「お兄ちゃん、本当にあの人が好きなの?」
「………」
妹達の問いに、深司は一言も答えられなかった。
けれど耳まで顔を真っ赤に染めるので、妹達は自分の大事な大事な兄があのオレンジ頭に奪われてしまったことを知るのだった。