バニシングツイン


千石さんにはもう一人千石さんがいる。
それを知ったのはつい最近で、ある日千石さんの家に遊びに行ったら彼がいたのだ。どこからどう見ても千石さんなのに、それは千石さんではなかった。 俺はびっくりしてあんた誰だと聞いたら、困ったように首を傾げられた。
困っているのはこっちだと思っていたら、いつの間にか千石さんはいつもの千石さんになっていた。
やほー、遊びに来てくれたんだ、伊武君。ほわんとした声で千石さんが笑うので、あれは誰かときいたら、母親の腹の中でいつの間にか消えていた双子の兄(か弟)だと言う。 時々、千石さんの部屋の中でだけ出てくるのだそうだ。
仲良くしてあげてね伊武君と言われたので、少し考えてから、善処しますと答えた。

もう一人の千石さんはいつもの千石さんと違っておとなしい。
女の子がどうとか言わないし、べたべたしてこないし、穏やかに話す。
俺は案外こっちの千石さんが嫌いではなかった。こちらが何も言わなければ特に何も言ってこないので、好きに本を読んだりテレビを見たりすることができる。たまに一緒にテレビを見ていると「これはどういう意味?」と聞いてきたりするが、それはぜんぜん面倒くさいことでもなんでもなかった。
もう一人の千石さんは、本当の千石さんと記憶を共有していないらしく、この世界のことはわからないことばかりだと言う。 それでも千石さんの使ってる教科書を見て一人で勉強したり、テレビを見て最近の出来事や流行、そう言った情報を学んでいるそうだ。
純粋にすごいと思ったのでそう伝えると、そうかなと言ってやわらかく笑った。それ以外にすることが無いからだよ、と悲しそうにも笑った。

ある日千石さんの家にまた遊びに行ったら、ベッドの上で千石さんは座って雑誌を読んでいた。
千石さん。呼びかけると、こちらを向いて「伊武君はどっちの『千石さん』を呼んでいるのかな?」と笑ったので、今目の前にいるのはもう一人の千石さんだと知った。 もう一人の千石さんには名前が無いのだ。
それでは色々不便なので、呼び名を考えることにした。本当の千石さんは『千石さん』で、もう一人の千石さんは『清純さん』でどうだろうかと言えば、もう一人の千石さんは困ったように笑って、それじゃあ清純が怒るから、清純のほうを『清純』と呼んでやってくれ、と言った。 そのことを本当の千石さんに言ったら、それがいいそうしよう!と言って大喜びだった。


千石さんが悲しげな表情をして俯いている。俺は千石さんの悲しそうに笑う顔とかは見たことがあるけど、笑ってもいない悲しそうな顔を見るのは初めてだったので、驚いた。 どうしたんですかと訊けば、千石さんの目から涙がぽろりと零れた。
どうしよう、伊武君が好きになってしまった。そう言ってまた涙を零した。
僕の世界はこの狭い部屋だけで、そこにはもうずっと僕一人だったのに、伊武君が現れたから、好きになってしまった。伊武君は僕なんかじゃなくて清純が好きだし、清純も君が好きなのに、僕なんかが伊武君を好きになってしまったと嘆いて千石さんは泣いた。
どうしていいかわからなかったけれど、とにかく自分の鞄からスポーツタオルを出して涙を拭かせたら、ありがとうと言ってまた泣かれた。 清純さんにはこの事は言えなかった。

千石さんに、ごめんねと言われながらキスをされた。

さようならと言われながら抱きしめられた。


それ以来、千石さんは現れなくなった。


千石さんがいなくなったので、清純さんはまた千石さんと呼ぶことにした。千石さんは不満そうだったが、俺にはこのほうが呼びやすいのだと言ったら、いつか清純さんとしか呼べなくしてあげるからね!と言われた。 もう一人の千石さんはどこへ行ってしまったのだろう。いつかひょっこり現れるのだろうか。それとも。
「千石さん」
「なんだい?」
今返事をしているのはどちらの千石さんなのだろうか。俺はずっと考えている。