視線の理由


目の前でわめく男にうんざりしていた。
男が何語をしゃべっているかわからない。わからないというより理解したくない、 あぁ、はやく終わらないか。頭の中はそればかりだ。

時々、こうやって裏庭とか校舎裏とか屋上とか、人気のないところに呼び出されることがある。 それがかわいい女の子からの呼び出しとかならまぁ飛び上がるほどうれしいというわけではないにしろ、悪い気はしない。
だがそれとはまったくもって違うのだ。俺を呼び出すのはいつも男だ。そして決まってこう言う。
「跡部様に近づくな」と。
あぁ気持ち悪い。思い出しただけでも鳥肌がたつ。 目の前の男もついさっきその言葉を言ったばかりだ。 大体、どうして俺がこんな目に合わなければいけないのだ。

跡部景吾。この学園の絶対的なる存在。 金持ちでスポーツ万能成績優秀、見た目もいいしカリスマ性もある。おまけに生徒会会長。
あまりの完璧さが逆に気持ち悪いと思うのだが、この学園の生徒達はそうは思わないようだ。 心酔しきっているのが女子ならまだわかるが男女問わず、なのだから性質が悪い。
どいつもこいつも跡部様跡部様。新手の宗教か?終わってるなこの学園。
そんな学園に俺はつい二ヶ月ほど前、わけあって転校してきた。
はじめはこんな中途半端な時期に入ってくる転入生として奇異の目で見られたが、 ものめずらしさも三日あればそれはたいしたことではなくなる。
クラスでは鳳と言うやつがやけに親切にしてくれて、とりあえずそれがお友達第一号だった。 団体行動は別に好きでもないし、友達がたくさん必要とも思わない俺にはそれくらいで十分で、あとはクラスの人間とも特別仲がいいと言うわけではないが、それなりに会話くらいはするといったようになり、学園生活も順調に思われた矢先のことだった。

なぜだか俺は、その跡部にやたら目をつけられるようになってしまったのだ。

何が原因なのかはいまだにわからない。だがそのせいで俺はこうして絡まれるようになった。 女子はそれでも表立って俺に文句を言ってきたりしないが、問題は男のほうだった。 なんでお前なんかが、なんてよく言われる。そんなの俺だって知りたい。
どうしてあの男が、こんなどこにでもいるような俺を構うのか。
初めて会ったとき、階段の踊り場で仲間とたむろっているのを「あんた邪魔です」と言ったことか?(あのときの鳳はずいぶん青い顔をしていた)
そのあと、「おい、てめぇなんて名前だ」と言われたのに対して思いっきりその場で思いついた偽名を言ったことか?
それともその二日後、「よくも嘘の名前教えやがったな」と言って現れたのに対して「あんた誰です?」と言ってしまったことだろうか。 (ちなみに俺はそのとき、別に跡部の顔を忘れていたわけではない。窓ガラスに反射した光がまぶしくて顔がよく見えなかったのだ)
結局跡部は「気に入ったぜ」とかよくわけのわからないことを言って、その日からやたら俺に構うようになった。

おい日吉、ちょっと来い。
日吉、昼飯に行くぞ。
ついてこい日吉。

うぜぇ!!!!
思わず腹立たしさが込み上げて、目の前でまだわめいている男をぶん殴ってやりたくなった。拳を握り締め、自分の中に湧き上がる怒りをなんとかやりすごす。意識をどこか別のものに向けなければと思って視線を遠くへやる。 それがいけなかったのだろうか。 俺の目に飛び込んできたのは、馬鹿でかい校舎と、どこかのクラスの空いている窓。
…三年の教室だとわかったのは、そこに人がいたからだ。
跡部景吾。それに、いつも跡部の周りにいる、ヤツの友人達。 あいつらの視線の先は、こちらだった。
いつから?もしかしたら最初からかもしれない。 跡部達は絡まれている俺を、まるで暇つぶしの一つみたいにして見ていたのだ。 つまらなそうな顔をして、人を見下すように笑うその顔を見た瞬間、自分の中で何かがキレた。
「おい、きいてんのかよ…!」
肩を掴まれた、と思った瞬間、俺は無意識の内にその手を払い、男の頭の左側面に蹴りを入れていた。 これは誰にも言っていないことなのだが(別にひけらかしたりすることでもないし)、俺の家は古武術の道場をやっている。幼いころから武術を叩き込まれた俺に、この程度の男の一人や二人、排除するのは造作も無いことだ。
いまの俺にとって目の前の男はただの邪魔な壁程度しかない。 俺が目指すのはあそこだ。
三年の、あの教室。あの男、跡部。
倒れこむ男には目もくれずに再び三年の教室の窓へと視線をやる。 跡部がこちらを見ていた。視線が絡む。

いまからお前をぶん殴りにいってやる

心の中で呪詛を唱え、俺はそれを実行するために校舎のほうへと足を向けた。

怒気を隠しもせずに歩き、校舎に入ったところで突然声をかけられた。
「日吉、探したよ!!」
声のするほうに振り向けば、そこには鳳が立っていた。にこやかな笑顔。まぶしい。 自分には一生できない顔だ。
「どこ行ってたの?」
「別に」
鳳は俺が呼び出されていることを知らない。俺を呼び出す輩は、いつも鳳が居ない隙を狙ってくるのだ。 まぁ男に呼び出されて因縁つけられてるなんて事、こいつに言うつもりもないのでいいのだけれど。
「そう?日吉、一緒に帰ろうよ。帰りに本屋に行こうって言ってたじゃないか」
その言葉に、あれほど腹立っていたのが一瞬にしてどこかへ消えた。いや、冷静になれたと言うべきか。
跡部を殴りに行って、どうする?
そんな言葉が頭に浮かぶ。殴りに行ったとして、男に呼び出されるのは跡部が指示しているわけではない。 あの男が原因にしても、だ。だとしたら他人から見たら、どうあったって何もしていない跡部を俺が突然殴ったと 言うことになる。そんなことをしたらどうなるかなんて目に見えている。
「…そうだな、帰るか」
なんだか全部馬鹿らしくなった。鳳の言葉通り帰ろうと思ったが、鞄が無い。教室においてきたのだ。
「あ、ごめん。鞄持ってくればよかった」
「いや、待っててくれ」
謝る鳳に、そこまでして貰うことでもないと思ったので待っているように言って自分の教室へ急ぐ。
俺達二年の教室は二階だ。あの跡部のクラスの真下と言うのですら気に食わないのだが、それは考えないようにして教室へ急ぐ。 扉をあければそこには誰もいなかった。だが、自分の席以外にも鞄がいくつか残されてある。 部活動か何かで置いていっている人間がいるのだろう。 自分の席へ行って机の中に入っているノートを鞄に詰め込む。
ふいに窓の外を見ると、さっきまで俺が絡まれていたところにはもう誰もいなかった。 俺に絡んできた男も、目覚めてすぐに帰ったのだろうか。まぁそこまで力を入れて蹴ったわけじゃないから大丈夫だろう。
鳳をあまり待たせるわけにもいかないと思って扉のほうに振り向く。振り向いて、ぎょっとした。
そこに立っていたのは、紛れも無い、跡部だったのだから。 しかも何故か肩で息を切らせている。すごい目で俺を睨み付けている。…なんだ?
「てんめぇ……!なんで、こねぇ…!!」
「…はぁ?」
何を言っているのだこの男は。あぁ今日は本当に言語のわからない人間によく遭遇する。 誰かこの男の通訳を!いますぐに!!
「なんでこの俺のとこにこねぇんだって聞いてんだ…!」
「なんであんたのとこに俺が行かないといけないんですか」
どうやら跡部は俺がこいつのところに行かなかったから怒っているようだった。なんでだ。 別に跡部のとこに行く約束なんてしてたわけじゃないし、なるべくなら俺から近寄りたくも無い。
「さっき!!」
「…は?」
「さっき、こっち見てただろうが!!今にも殴りかかりそうな目で!」
あぁ、俺の意思はきちんと伝わっていたのだな。まず思ったのはそれだった。 それから、この男は俺が自分を殴りつけるとわかっていて、待っていたのか?と考える。 だってそんな口ぶりだ。むしろ、なぜ来なかったのかと責められている。
そこで俺は、ある結論を導き出した。そうか、これかもしれない。跡部が俺を執拗にかまう理由。
「跡部さんってマゾなんですか」
「…あぁ!?」
「いや、だってそうじゃないですか。殴られたかったんでしょう?だから殴りに行かなかった俺に怒ってる。 普段から俺にやたら構ってたのも、本当は俺に殴られたかったんですか?どこで聞いたか知りませんが、俺が 古武術をやっていると知って、それで殴られたくなったんでしょう」
「お前、ふざけてんのか!?俺様がマゾなわけ、ねぇだろうが!!!」
「じゃあなんで怒ってるんですか」
問えば、跡部が言いよどむ。それにホラ見ろ、と思ったのだけど、跡部は違う!と叫んだ。 ますますわからない。じゃあ、なんだ。訊ねても跡部は答えない。
「日吉ぃ、どうしたのー!?」
遠くから鳳の声がする。そうだ、俺は鳳を待たせているのだ。チッと舌打ちが聞こえた。跡部だ。 跡部は眉間に皺を寄せながら俺を指差した。効果音で言うなら、ズバっとかビシっとか、そういう音がしそうな勢いで。
「今度は、俺のとこに来いよな」
「……ぶん殴りにですか?」
「違ぇ!!」
それだけ言って、跡部は去っていった。三階への階段を登っていく、その後ろ姿をしばらくぼんやり見つめていたが、俺も いつまでもここでぼうっとしているわけにはいかないと思い、階段を下りる。 下りた先では鳳が心配そうな顔をして俺のほうを見ていた。
「どうしたの?」
「…や、先生に声かけられただけだ」
「そう。じゃあ、帰ろうか」
鳳の言葉に頷き、並んで歩き出す。校舎を出たところでふいに振り向けば、三年のあのクラス、跡部のいる教室の窓があいていた。
また、跡部がこちらをじっと見ている。その視線を振り払うように、俺はまた前を向いてまっすぐに歩き始めた。