眩暈の底


リノリウムの床が冷たさを伝えてくる。
あぁこのままここに座り続けると尻が冷えるな、いやもう冷えているか。
頭のどこか隅のほうで日吉は考えたが、それももやのかかった思考では殆ど処理できずに消えていってしまった。

日吉は校舎の階段の途中で座り込んでいる。しかもいまは授業中だが、これには理由があった。理由と言っても単純なもので、ただ単に授業中に具合が悪くなったのだ。 原因が何かはわからない。
朝ごはんはしっかり食べてきたし、風邪気味だったわけでもないのに、急に授業中に気分の悪さを感じた日吉は、しかしそれでも耐えて授業に参加しようとしたのだった。しばらくすれば治まるだろうとも思ったのだが、時計の針が進めば進むほど気分が悪くなる。 授業開始から30分ほどたったころになると、とうとう悪寒がし始めた。
何度か稽古で倒れたことのある日吉には覚えのある感覚だった。
この悪寒がくれば、その次はきっと目を回して人の声もよく聞こえなくなり、倒れるだろう。日吉はそれをよくわかっていたので、仕方がなく席を立ち教師に気分が悪いことを告げ、保健室へ行くことを許可された。
クラス中の人間の視線がいっきに自分に集まるのは心地いいものではなかったが、もはや日吉はそれどころではなかった。
教室を出た途端に気持ち悪さは加速し、フラフラとおぼつかない足取りで急いで保健室に向かおうとしたのだが、階段を降りる途中でとうとう動けなくなってしまったのだ。 座り込み、気分がましになるのを待つが、なかなかそうはならない。 こんなところにいてはいけないと思うが、体は動いてくれそうにもないのだ。日吉は絶望的な気持ちでその場にうずくまっていた。
「…日吉か?なにしてんだよ、こんなトコで」
ふいに聞こえた声が誰の声かを、日吉は判断することができなかった。
耳を何かに塞がれているかのように、人の声が聞き取りにくくなっていたのだ。 体に力が入らないながらも懸命に頭を上げれば、階段の下から向日が日吉を見上げていた。
「…向日先輩こそ、なにを」
「忘れもんしたから教室に取りに戻るとこだよ」
移動教室なのだと言われて、納得する。それから日吉は、疲れてしまったのでまた顔を伏せた。
「おまえ、具合悪ぃのか?」
「…そうです」
いつもの日吉ならば強がって、「違います」と言っていたところだろう。しかし、いまはそんな虚勢をはれるほどの力が無かった。
滅多に見れることの無い日吉の弱弱しい姿に向日は驚く。珍しいこともあるもんだと思いながら、けれどあんまりに日吉が今にも死にそうな様子なのでそんな場合ではないと思い直す。
「立てんのか?」
「………無理です」
それは普段の日吉が絶対に口にしない言葉だった。 どう考えたってこんなところにずっといてて具合が良くなるわけがない。 けど日吉は立てないと言うのだから、歩く事だって無理だろう。
誰か教師を、保健室に行って人を呼ぶべきかと考え、いやしかし自分が離れている間に何かあったらどうすると考える。
「あぁ、もう!仕方ねぇな!!」
考えれば考えるほど面倒になった向日は、そう叫んで日吉の目の前に立った。
「乗れ!」
日吉はその声に伏せていた顔をもう一度上げる。目の前には向日の背中があった。意味はすぐに理解できた。おぶされと言っているのだ。 が、無理だと思った。
「…いや、無理でしょう」
「無理じゃねぇ!」
「……潰れますよ?」
「ふざけんな!先輩の力をなめんじゃねぇ」
いや、でも無理でしょう。日吉はもう一度そう言おうとして、やめた。具合が悪いのもあったし、多分これは言っても無駄だと思ったからだ。 仕方が無いが背中におぶさるしかない。
向日が潰れて転げ落ちるのを覚悟しながら、日吉は重い体を動かして立ち上がると、その背中に自分の体を預けた。
「…ぐっ…」
うめき声が聞こえる。向日は日吉をおぶったまま動かない。 動かないと言うより動けないのかもしれない。 もういいです、先輩。そう言いたいのに喉から声が出ない。
目蓋もどんどん重くなってきてもう目を開けることができない。このまま眠ってしまいそうだと思った矢先に意識が薄れていって、日吉が覚えているのは「ふんっ!」と言って向日がどうやら一歩を踏み出したと言うことだった。

日吉が目覚めたときはもうすっかり授業も終わって、ちょうど昼休憩が始まったころだった。
「目ぇさめたんか、日吉」
もそもそと起き上がると、ふいに声をかけられる。見れば日吉が寝ていたベッドの傍に椅子を寄せ、忍足が座っていた。
「…なんで忍足先輩がいるんですか」
「岳人に様子見てこいって言われたんや。えらい心配しとったで?」
その言葉に日吉はなんと返事していいのかわからなかった。ありがとうございます、と言うのもなんだか変だ。それは向日本人に言うべき言葉だろう。 しかしわざわざ様子を見に来てくれた忍足にも礼を言うべきか。 そんなことをぐるぐると考えている日吉に、忍足はふいにふっと笑い声を漏らした。
「なんですか?」
「いや、さっき保健の先生から聞いてんけどな?岳人のやつ、お前を背負ってて両手が塞がってたから、ここの扉蹴破ろうとしたらしいで」
そう言って忍足は笑い、日吉に「立てるか?」と急に訪ねた。
質問の意図がわからなかったが、日吉は頷いた。もう気分が悪いのもすっかりなくなっていたので、大丈夫だろうと判断したのだ。 それならこっち来てみ、と言う忍足の言葉に日吉はベッドから下りる。忍足が保健室を出るので日吉もそれについていくと、忍足はにやにや笑いながら保健室の扉を指差した。
「ほれ、見てみ。靴のあとついてんねん」
「…くっきりついてますね」
随分必死だったのだろう。両手が塞がっていたのなら自分を廊下でもいいから降ろせばよかったのに、と日吉は思う。
だが、日吉だってもし、例えばこの目の前にいる忍足がさっきの日吉のような状態になっていて、 自分がおぶっていれば、それができるかと考えたらできないなと思った。
「そういえば、向日さんは?」
「あぁ、さっきの授業のノート写さして貰ってた」
それは自分の所為だろうと日吉は察した。 自分を保健室までつれて行ったので、その間は向日は授業に参加できなかったのだ。
「日吉、今日は部活…」
「出ます」
「言うと思った。ほな、俺は戻るわ」
忍足が日吉に背を向けて歩き出す。三年の校舎に戻るのだろう。 日吉は忍足の背中を追いかけた。日吉が自分の後ろを歩いていることに気づいたのか、 「どないしたんや」と言って忍足が振り向く。
もうちょい寝ていけへんのか?と問う忍足に、日吉は首を横に振る。
「向日さんに礼を言っておかないといけないでしょう」
「部活の時でもえぇんちゃう?」
「いえ、今から行きます」
とにかく、今、言わなければいけないと思ったのだ。そんな日吉に、忍足は笑みをこぼす。忍足はこの後輩がかなりの頑固者であるとよく理解していた。
「ほな、一緒にいこか。俺も岳人に用あるしな」
「はい」
二人、並んで歩き出す。日吉は向日のいる教室についたとき、向日を目の前にしたとき、果たしてちゃんと礼が言えるのだろうか。どのような顔をして、なんと言ったらいいのだろうかと、そんなことばかり考えていた所為で階段の一段目に躓いて転びかけた。