酩酊する深夜二時頃


大学に入れば人付き合いが増えると共に、酒を飲む回数も自然と増える。 付き合いというものは非常に大事なものだ。例えそれがどれだけ面倒なときでも、 誘われたからにはよっぽどのことが無い限り断るわけにはいかない。
その日も白石蔵ノ介は、しこたま酒を飲んでふらふらとした危険な足取りで帰路についていた。 頭の中はグラグラするし、胃はムカムカする。いっそ吐いてしまえば楽になれるのだが、 往来でそんな事をするわけにはいかないと彼のプライドが許さなかった。
一緒に飲んでいた同じサークルの女の子たちが期待に満ちた目で白石を送ろうかと誘ってくれたが、丁重にお断りした。 白石は積極的な女が昔からどうしても好きになれないが、 こういう時の女の鬱陶しさはとんでもなく凄いものだと酔った頭で考えていた。
とにかく早く家に帰らねばと思い、タクシーを捕まえる。 自宅近くまでの道を大雑把に説明して、後部座席のシートに体を預けると、少し楽になれた気がした。 それでもやはり気分が悪いのに変わりは無くて、思わず額に手を当てて項垂れた。

ほんの一瞬意識を飛ばしただけなのに、気付けばタクシーは自宅近くの場所で止まっていた。
兄ちゃん、大丈夫?タクシーの運転手に声をかけられ、慌てて返事をして財布を取り出す。 料金メーターを見れば、3200と言うデジタルの数字がはやく払えと言わんばかりに光っていた。 モタモタと金を出そうとすれば、運転手に3000円でえぇよと言われ、白石は礼を言って千円札を三枚手渡した。
タクシーを降りれば、ようやく見慣れた道が目の前にあるということにほっとする。 冷たい夜の空気が幾分か気を楽にしてくれたが、やはり酔っているのでしゃんと立つのも辛い。
とにかくさっさと帰って横になりたかった。 風呂は明日の朝でもこの際構わない。そう思いながらふらふらと歩く。 ふと、白石は遠くに見える自分の家の前に、誰かがしゃがみ込んでいるのに気付いた。
誰だろうと思い、目を凝らして座り込んでいる人間を見ようとすると、 相手は白石の存在に気付いたようで、大きな声で白石の名前を呼びながらこちらに走ってきた。
「おーい!しらいしぃーー!!!」
「金ちゃん?」
予想外の人物の訪問に、白石は驚き、それからはっとして自分の左手を見た。 そこには、白石の左腕を守るように白い包帯が巻かれている。それに酷くほっとした。
白石は未だに左手に包帯を巻き続けている。 おかげで大学でも初対面の人間には「なんで包帯巻いてるん?」と聞かれるのが常だった。
遠山金太郎は高校を卒業して、すぐに自分よりも強い人間とテニスをするために世界へと飛び立った。 彼ならばプロになることは容易いことだっただろうし、 そうなったほうがいいんじゃないかと大人が言って聞かせても、彼はただ笑ってこう言った。
自分の足で強いやつを見つけて、勝負するのだと。それが例え、地球の裏側だろうと、どこだろうと突き進むのだと。
白石や、謙也達はみんな笑った。笑って、しゃあないなと言った。それが金ちゃんなんやと。
そうして今現在も世界中を旅している金太郎だが、日本に帰ってくることもたまにはある。 それは不定期で、本当にある日突然ふらっと帰ってくるのだ。 いつもの笑顔で、昨日ぶりに会うみたいに、「よっ!」なんて軽いノリで現れる。
そんな金太郎の為に、白石は未だに腕に包帯を巻いている。 金太郎はまだ毒手を信じていて(否、本当はとっくに嘘だと気付いているのかもしれないが)、 いつ現れるかわからない彼の為に毎日、包帯を巻いているのだ。
「金ちゃん、久しぶりやなぁ」
「そうかぁ?」
正確に言えば5ヶ月ぶりだ。だが、金太郎は首をかしげている。 きっと彼にとっては5日ぶりくらいの感覚なのかもしれない。白石は思わず笑った。
「白石、酒くさい」
「…男には飲まなあかんときもあるねん」
ふぅん。金太郎は納得したのかしていないのか、気の無い返事をする。そういうところが相変わらずだ。 背は伸びたが、やっぱり子供のように見える。それを言えばきっと怒るだろうから、白石は黙っているが。
「来てくれたんは嬉しいけど、金ちゃん、外で待ってるなんて危ないやんか。 夜も遅いんやし、俺の家族に言って中に入って待っててもよかってんで?」
物騒な世の中なのだ。金太郎の体に何かがあったら大変だし、それでなくとも夜は寒い。 金太郎の、相変わらずのヒョウ柄のランニングは見るからに寒そうだ。けれど、金太郎はぷうっと頬を膨らませる。
「ちゃうでぇ!ワイ、ちゃんと白石のおばちゃんに言って中入れて貰っててん。 でも、もうすぐしたら白石帰ってくるかもっておばちゃんが言うたから、外に出て待ってたんや!」
にへ、と笑う。白石はそういう、金太郎の純粋なところが好きで好きでたまらなかった。 金太郎の行動にはいつも打算や、邪な考えが無い。ただ、純粋に白石の帰りを待とうと思ったのだろう。 そうすれば白石が喜ぶとか、いいやつだと思われるだろうとか、そういったものが最初から無いのだ。
「そうか。ほな、はよ家にはいろ。寒いわ」
「…白石、大丈夫か?ふらふらしとんで」
金太郎にまで心配されてしまって、どうして今日あれだけ飲んでしまったのだろうと白石は後悔した。


結局、部屋についた辺りで白石の意識は朦朧としたものにまでなってしまっていた。 自分の部屋についた、という安心感からかただたんに限界だったからなのか。 いつの間にか用意されていた、グラスに入った水に口をつけるものの、そんなことで具合がよくなるわけでもない。
「そんでなー、ワイの必殺技で形勢逆転や!!」
金太郎は、そんな白石の様子など気にもとめずに、世界放浪の旅の話を嬉々として語っている。 なんだかやたらと暑い国で、凄く強い相手と戦って、負けそうになったところをなんとか逆転して勝ったとか。
ものすごく寒い国で知り合った老夫婦に暫く世話になっていたとか。 金太郎の口から語られる話は面白いものばかりだったが、今の白石にはマトモに聞くことも難しい。
もっと、酔ってなんかいない、普通のときに聞けばもう少しマシな反応が返せただろうに、 今の白石では「あー」とか「そうかー」とか言う返事をするだけで精一杯だった。 金太郎はなおも、目をキラキラさせながら話す。深夜の二時だというのに元気な事だ。 昔ならば、こんな時間まで起きれなかったあの金太郎が。
珍しい食べ物を食べた。面白い人に出会った。大変な目にあった。でも面白い目にあった。 話は尽きない。白石はそんな金太郎をぼんやりと見つめる。
「…きっと、金ちゃんはそんな感じで生きてくんやろなぁ」
きっと金ちゃんは、そんな風に自由に生きていくねん。 挫折も苦労も、笑い飛ばして、俺らには到底できへんことをして、おっきい世界へ飛び立っていく。 どっか一つにとどまることも無く、ずっとずっと飛び続けて、いろんな人に出会って、就職もせーへん、 けど食っていけるねん。でもなんでかさらっとどっかの国とかでえぇコ見つけて、さらっと結婚してまうねん。 俺らんとこに、結婚しましたーとか書いてるえらい幸せそうな葉書が届いて、 でもやっぱり金ちゃんは金ちゃんやから、ずっと飛び続けて生きていく。
「そこには俺はおらん。金ちゃんの横には俺はおらん。金ちゃんは絶対に、永遠に、俺のものにはならんのや」
いつの間にか金太郎の話は止まっていた。 酔った勢いでべらべらと喋りだした白石に驚いたのか、話の意味がわからないのか、 目を丸くしてきょとんとしている。
それはそうだろう。 何せ、喋っている白石ですら、勝手に動く口をとめることができず、頭の片隅でもう一人の冷静な自分が 「なに喋ってんねん」とツッコんでいたくらいだ。
「白石、ワイ、誰のもんにもならんで。ワイはワイのもんや」
「…せやなぁ。金ちゃんは、誰のもんでもないなぁ」
白石はそれをわかっていた。ずっと、出会ったときからわかっていた。 けれど改めて口に出されて言われるのが、こんなにも傷つくのだということを、白石は初めて知った。 痛くて仕方が無い。酔っていてよかったかもしれないと、この瞬間だけは酒に感謝した。
「けどな、ずっと傍におって欲しい人くらい、おるで?」
「へぇ、誰やそれ」
半ば投げやりになって金太郎に放り投げた言葉は、鋭いショットとなって白石に返ってきた。 金太郎がまっすぐに白石を見る。
「しらいし」
「……なんて、金ちゃん」
「白石蔵ノ介」
白石は思考をとめた。ストップ、リピート。金太郎はなんと言った? 今、白石蔵ノ介と言わなかったか?考えて、考えようにも考えれない。
酒のせいで思考がまとまらないのだ。もしかして、幻聴だったのだろうかとまで考える。 とっさに冗談やろうと笑うことができなかったのは、金太郎の目だ。 お天道様を見据える、テニスの試合相手を見据える、あの目。
白石は立ち上がった。よろよろと。ちょっと待っといて。それだけを言うと、 ふらふらになりながらも白石は自分の部屋を出る。向かった先はトイレで、白石は胃の中のものを全部吐いた。 一通り吐いて落ち着き、洗面所で顔を洗う。
さっきまでの朦朧とした意識はどこへやら、見違えるように頭がすっきりとした白石は、 壁にかけられていたタオルで顔を拭くと、急いで自分の部屋に戻った。
「金ちゃん!!!さっきのもう一回言うてくれ!!!」
「……どれ?」
さっきまで死にそうな様子だった白石が急に復活したのに、金太郎は戸惑いを隠せないようだった。 しかも帰って来たと思ったら、唐突に「もう一回言ってくれ!」と鼻息荒く迫ってくるのだから、驚かないわけがない。
「ずっと傍におって欲しい人のとこ!」
「さっきも言うたやん。白石、何回言わすねん!」
金太郎は割りと短気なところがある。 しつこく何度も同じ事を聞かれたりするのが好きではないと言うのは白石も知っていたが、それでも聞きたかった。 酔いのさめた、はっきりとした意識の状態で。
今もむっとした顔をしている金太郎に、白石は瞬時に冷静に考えた。そして、わざと傷ついた顔をする。
「…頼むわ、一生のお願いや」
そうすると、金太郎が弱いことなど重々承知なのだ。基本的に金太郎はお人よしで、 困っている人間を見捨てておくことができない。それを証拠に、白石がしおらしい態度を取りはじめると、 途端に金太郎は困ったように眉をハの字にさせた。
「ああああ!!もう!白石や!しーらーいーしーくーらーのーすーけ!!」
金太郎が白石の名前を叫んだ瞬間、白石は金太郎の体を抱きしめていた。 ずっとこの腕に抱きたかった人間を、今、自分は抱きしめることができているのだ。 白石はその幸福感をかみ締めた。
金太郎はされるがままになっている。 呆れていて抵抗もできないのかもしれない。けれど、振り払われることは無い。白石は安堵した。
「俺も金ちゃんにずっと傍にいて欲しい」
「ほんま?」
「ほんまや」
顔を見合わせて、笑いあう。調子に乗った白石はそのままの勢いで金太郎に唇を近づけて… しかし、ふいっと顔をそらされた。
「ちょ、なんで顔向こうにむけんねん!金ちゃん!」
「だって今の白石、酒くさいねんもん!いやや!」
いくら酔いはさめても、酒臭さまでは抜けはしない。金太郎は頑なに白石を拒んだ。 いややーはなせーあほーを連呼されては、白石も無理強いはできない。 せっかく実を結んだ恋の前に、早くも白石は泣いて倒れ伏せたのだった。



金色小春は、何気なくポストの中の新聞を取り出そうとして、それ以外に葉書が一枚入っている事に気づいた。 ダイレクトメールかと思いそれを手に取り、思わず顔をほころばせる。 それからすぐに部屋に戻ると、ソファでごろごろしているユウジにその葉書を見せた。
「ユウくん、見て見て!」
「なんや小春〜?」
葉書には、でかでかと白石と金太郎の2ショット写真が印刷されていた。 派手な色で、『結婚しました』と書かれているその横に、小さく『引っ越しました』という文字が並んでいる。 どうやらメインはこちらの文字のほうらしい。
その下に書かれている住所は、白石の実家の近くだった。 ユウジがん〜…と声を上げて目を細め、やがて首をかしげる。
「………合成?」
「いやちょっとくらい信じたげなさいよ」