けだものだもの



とても良い夢を見ていた。と、思う。 もう夢の欠片も掴むことができないけれど、なんと無く嬉しいような、楽しい夢を見ていた気がするのだ。
けれどそれは一瞬にして消えうせた。 ずぐ、と重い感覚が腹の辺りにのしかかる。あれだけ自分を包み込んでいた幸福感はどこかへ逃げてしまった。重い、重くて潰されそうだ。

は、と千歳千里は気がついた。
ぱちりと開く目、見えるのは青い空。寝起きのぼんやりした頭が動き出す。 そうだ自分は屋上で昼寝をしていたのだと思い出した。 しかし夢から覚めたはずなのに未だに体は重い。特に、腹の辺り。
何かが自分の上にのしかかっている、と言う事に気付いた千歳は少しだけ首を持ち上げてそこに視線をやった。
「あ、やっと起きた」
自分の腹の上、跨っているのは元気な後輩、遠山金太郎だった。
まさか金太郎に跨られていたとは思ってもいなかった千歳は、驚いて目を丸くする。 目が覚めて誰かに圧し掛かられていたら驚くのは至極当然なのだが、相手が金太郎だから余計だった。 相変わらず、彼の行動は突拍子が無い。 しかも、彼は「やっと起きた」と言ったのだ。
と言うことはつまり、結構な間、金太郎は千歳の上にいたと言う事になる。 なんだってこんな状態になっているのか、千歳にはさっぱりわからない。
「金ちゃん、驚いたやなかか」
咎める声はもちろん怒ってなどいなくて、むしろまた何か面白いことでもしてくれるのかと、期待の方が大きかった。 金太郎も、何か期待に満ちた目で千歳を見下ろしている。浮かべる表情は満面の笑み。千歳の好きな顔だ。
「なぁ、『あなたはだぁれ』?」
「…んん?」
笑顔の金太郎の口から出てきた言葉は千歳を戸惑わせるのには十分なくらいだった。 何故か、誰かと問われた。いまさら?とうに千歳の名前など知っているだろうに、 しかもなんだか期待に満ち満ちた目で見つめてくる。
ぐるぐると千歳の頭の中に疑問が渦巻く。ボケか?ボケを期待されているのかこれは? しかしながら、千歳はそういった行為が苦手であった。 部員の皆をいつもおもしろいなーと思って見ている側の人間なのだ。 捻りのきいた返答など考えもつかない千歳は、真面目に答えた。
「千歳、千里」
しかし、やっぱりこの回答は金太郎のお気に召すものではなかったらしい。 途端に両の頬をぷくりと膨らませ、不満気な表情になってしまった。
それだけでは足りないのか、ゆさゆさと体を揺らして「ちゃうー!」と言われてしまう。 しかし千歳としては何が「ちゃう」なのかもわからないし、そ れ以前にその体勢で上下に揺れられるのは非常に危険だった。性的な意味で。
大好きで仕方ない人間に馬乗りにされているだなんて、どう考えたっておいしい状況だろう。 手を出さないのはここが屋上で、密室ではないからだ。
TPOは大事だ。あとここからだと角度的には三年の教室の中が見える。 と言うことは向こうからも見えるということだ。
「ちゃうー!!千歳は今、トトロやねん!!」
その言葉に、千歳はようやく合点がいった。つまり金太郎は「ごっこ遊び」をしているのだ。 なぜ金太郎が急にそんな行動に出たのかも、千歳には大体予想がついていた。
「金ちゃん…昨日のトトロば見たとね?」
「見たでぇ!千歳の好きなやつやもん!」
昨晩、千歳の大好きなジブリ作品であるトトロが放送されていたのだ。
DVDだってしっかり持っている千歳だが、テレビで放送されるのなら見ないという選択肢は無い。 あぁしかし自分が好きだからと言う理由で見てくれたなんて、なんて嬉しいのだろうか。 金太郎は、人が嬉しいと思うことを自然と、さらりとやってしまうことができる。 それは彼の美徳だ。千歳は彼のそういった部分を、心からすばらしいと思っている。
「そんで、俺がトトロ?」
「そや!だって寝とる千歳、トトロそっくりや!」
きらきらした目で言われ、嬉しいやらなんやら。微妙な気持ちで一杯だ。
まぁ、それで目の前の愛しい人が笑ってくれるならお安いものだが。 とうとう、金太郎は千歳の上に覆いかぶさるように倒れこんできた。 そういえばそんなシーンもあったなぁと思い出す。
身長差がとんでもなくあるので、金太郎が千歳の上に腹ばいになって乗っかってくれば、 ちょうど胸の辺りに金太郎の顔がくる。ああ、だから!それはいろいろと危険なのだ! と言ったところで金太郎に通じるわけも無いが、ちょっとした悪戯心が湧き上がるのは仕方ないだろう。
「俺はトトロやなかよ。もっと、悪か怪物たい」
「なんで?千歳は悪いやつちゃうで!」
千歳はめっちゃえぇ奴や!そんな事を言ってくれる金太郎に、思わず千歳の頬が緩む。 けれど黙ったまま、すぐに顔を真面目なものに変えて、千歳は金太郎の腰を手で掴むと勢いよく引き寄せた。 もう少しで唇同士が触れ合いそうな距離なのに、金太郎はきょとんとしている。

「そうやって油断しとる金ちゃんば、頭から食ぅてしまうかもしれん」

が、と口を開けてやる。けれどやはり金太郎は、目を丸くして首をかしげている。 驚いて焦ったりするのを少しばかり期待していた千歳だが、やはり彼にまだこう言ったことはわからないかと苦笑した。
むくりと勢いよく起き上がれば、腹の上の金太郎がころりと転げ落ちる。 ごっこ遊びはもうおしまいだ。どうせもうすぐチャイムも鳴るだろう。 ゆっくり立ち上がり、ズボンについた砂を払っていると、金太郎もすくりと立ち上がって千歳に背を向けた。
「ワイ、もう行くわ!」
そう言って走り出しそうになったその背中に、どうしてだか千歳は引き止めたい気持ちになった。 何か言いたい事があったわけでもない。けれど、千歳は思わず走り去りそうな背中に「金ちゃん」と呼びかけてしまった。
踏み出した足を止めて、金太郎が振り向く。
「…なに?」
千歳は驚いた。振り向いた金太郎の、その顔は、困ったようなそんな表情で。…真っ赤だった。 あれ?今度は千歳が首をかしげる。もしかして、と思ってしまうのは自惚れだろうか?
「…金ちゃん?顔、真っ赤ばい」
「…!そんなん、なってない!!」
叫んで、金太郎は今度こそ走り去ってしまった。 千歳は、これほどまでに肯定としか取れない否定を見たことがない。 あっけに取られて、それからふつふつと何かが湧き上がってきた。
その衝動に名をつけるなら多分それは、愛しさというやつだと、千歳は思った。 衝動は内にとどまらず、外へとあふれ出す。じっとしてなど、いられない。
「金ちゃん!待ってくれんね!!」
だから千歳は走り出した。もちろん、とびきり愛しい子の元へ。