恋は人を愚かにするのだ!




テスト期間中はどこもクラブ活動は休みになる。 立海大と言えどそこは普通の学校と同じで、テニス部も例外なく休みだ。 テニスに打ち込んでいた所為で勉強をおろそかにしてしまった、と言うのは何の言い訳にもならない。
酷い点数を取れば鬼の副部長からの説教が待っているため、どの部員も勉強に熱心になる。まぁ、一部を除いてだが。
「柳さん、メシ食ってから帰りません?」
その一部の代表とも言えるのが、この切原赤也だ。 さっきまでは「やべぇ、テスト全然できなかった!」といって頭を抱えていたと言うのに、 この変わりようはなんだろうか。どうしてそんな笑顔なのだ。
「…赤也、家に帰って勉強をしろ」
でないと弦一郎に怒鳴られるぞ、と脅してやると、「どうせもう怒られるの決定ッスよ!」と開き直ってしまった。 どうやら、今日のテストは本当に散々だったらしい。だからこそ、明日がんばろうと考えて欲しいのだが。
「ねぇ、行きましょうよー。あ、そうだ。ついでに柳さんが俺に勉強教えてくださいよ。それならいいでしょ?」
「…勉強はついでなのか」
その言葉から、やはり勉強を真面目にする気は伺うことができない。 渋る俺の腕をぐいぐいと引っ張って連れ出そうとする赤也に、結局逆らえる筈も無いのだ。 赤也は勉強はできないが、こう言う所は聡い。誰にならどこまで何をやってもいいかを、熟知しているのだ。 赤也は同じことを弦一郎にはしないだろう。
「…仕方が無いな。わかったから、手を離してくれ」
俺が折れるのを、赤也はよく知っているのだ。

赤也に連れられて、入ったのはハンバーガーショップだった。 余り好きではない場所だが、赤也は安くて入りやすいし、長居もしやすいから便利だと言う。 まぁ学生の小遣いならばそのほうがいいだろう。先日もCDやら本やらを買った所為で金が無いと嘆いていた。
ちょうど空いているテーブルがあったので迷わずそこに荷物を置いて腰をかける。 先に買いに行っていいと赤也が言うので、財布を持ってレジの前に立つ。 しかし、こってりしたものを食べたいとも思わないので、チキンナゲットとサラダ、 それから紅茶を頼んで赤也の待つテーブルへと帰る。 赤也は携帯の画面を見ていたようだったが、帰ってきた俺に気付いて携帯を閉じて机の上に置いた。
「お帰りなさいーって、サラダとか頼むんスか、先輩!」
サラダを頼むことがそんなにおかしいのだろうか。赤也は「マジっすか!」を連呼している。 それを見て、きっと赤也は外食したら野菜なんて食べもしないのだろうと、容易に想像することができた。
「先輩って、焼肉食べに行ったらちゃんと野菜とか食べる人でしょ」
「肉ばかり食べていてはバランスが悪いだろう。きちんと野菜も食べないといけないぞ、赤也」
「焼肉屋に行って食うもんって行ったら肉のみでしょ!」
その考えは弦一郎とまるで一緒だ。ある意味似たもの同士なのだろうかと考えながら椅子に座る。 俺が椅子に座ったのを見届けて、今度は赤也が席を立った。
「行ってくるッス」と言い残して、財布だけを手に取るとレジへと行ってしまう。 先に一人で食べるという概念などは無いので、赤也を待つつもりで特に何をするわけでもなく店内を見渡す。 レジのほうを見れば、癖のある黒髪が見えた。俺は赤也を見つけ出すことには少し自信がある。
ふいにテーブルが震えだし、予想外の事に心臓が跳ね上がる。原因はすぐに知れた。 赤也が置いていった携帯だ。着信なのだろうか、携帯の震えは止まらないが、 他人の携帯を勝手に触るのは忍びない。そう思って、震えが止まるのを待つ。 やがて、携帯はぴたりと動きを止めた。それにどこかほっとして、それからふと考える。
もしかして、赤也はいつもこんな風に、携帯を置きっぱなしにして席を離れてしまうのだろうか。 一人でファーストフードに入ることもよくある、と話す赤也なので、その可能性が無いとは言い切れない。 だとしたら、どれだけ無用心なことか。勝手に他人に見られたり、最悪、盗まれてしまうこともあるかもしれないのだ。 これは一度注意しなければ、と心に決めて赤也が戻るのを待つ。
程なくして、赤也が戻ってきた。トレイの上にはハンバーガーが二つ、チキンナゲットが一つにジュース (大きさから見てLサイズだろう)が乗っている。見ているだけで満腹になりそうだと思うが、 赤也はこれだけ食べてもさらに晩御飯を普通に食べるのだと言う。以前、それに驚けば、 逆に俺の胃が小さいんだと言われたが、そうなのだろうか。
「結構すんなり買えましたよ!」
にこにこと笑っている。予想外にスムーズに精算を済ませることができたからだろうか?と考えながら、 俺は「赤也、」と改まって名前を呼ぶ。もちろん、携帯のことを注意するためだ。
「赤也、テーブルに置いてある携帯だが…」
「や、柳さん!!中、見たんスか!?」
…通常、もしかして携帯の中身を見られたのではあるまいか、 と疑う人間はもっと猜疑心に満ちた目で相手を見つめると思うのだが、 どうして赤也の場合は瞳が輝いているのだろうか。まるで見て欲しかったと言わんばかりだが、 なんのメリットがあって携帯を覗いて欲しいと思うのだと考え、 まぁ慌てて表情を間違えたのだろうと、やや苦しいがそういうことにしておいた。
「…俺は、人の携帯の中身を勝手に見るなどという無礼なことはしない」
「あ、そうっすか…」
何故、意気消沈するのだろう。
「でも、ちょっと見たくならないっすか?」
何故、そんな事を訊ねるのだろう。
「いや、全く。見られるのは不愉快だろう?」
「でも、俺、柳さんに見られるなら平気ッスよ?」
赤也はこうして、時々よくわからないことを言う。こちらを困らせるつもりは一切無いらしいのだが、 いつも理解に苦しんでしまう。と同時に、おもしろいとも思う。 データ通りにならない突飛な発想は俺を楽しませてくれる、と言ったら「突飛じゃないっす!」と怒られた。
「とにかく、携帯を置いて席を離れるのはよくない。盗られるかもしれない」
「そっすか?結構大丈夫っスけどねぇ」
しかし、そう言って安心しきっていると、つい目を離した隙に〜なんて言うことがこの世の中には多いのだ。 もう一度、気をつけるように注意すると、赤也は「はぁい」と言う適当な返事を俺に返した。 どうやら気をつけるつもりは一切無いらしい。
「じゃ、勉強教えてくださいッス!」
「…食べながらやるのか」
赤也が鞄の中から教科書とノートを取り出したので、 俺は赤也の食べているハンバーガーのケチャップが落ちてノートを汚さないかと言うことばかりが気になった。

ようやく赤也が頭を悩ませていた問題を解き終える頃には、俺はすっかりサラダもナゲットも食べ終えていた。 いつの間にか、赤也も自分の分を食べ終えている。それどころか「甘いもん食べたいっすね」などと言って、 デザートを買いに行くために財布を持って立ち上がったのだ。
「じゃ、行って来ます」
「あぁ」
「……別に、見てもいいんスよ?」
最後に妙な念押しをして、赤也は携帯をテーブルの上に置いてレジに向かってしまった。 忘れていったわけではない、敢えて置いて行ったのだ、と言うことくらいはわかる。では、置いていった理由は?
赤也が解いていた問題よりもずっと簡単で、答えはすぐに弾き出される。赤也は、携帯を俺に見て欲しいのだろう。 しかし何故、見て欲しいと思っているのか。それだけがわからない。 そして、いくら本人が見ても良いと言っていたとしても、 俺にはやはり他人の携帯の中身を暴き見ようなどという考えはなかった。
やがて赤也が戻ってきた。手にはアイスを持っていて、よくもまぁそれだけ胃に入るものだと感心してしまう。 赤也は席に着くと、期待に満ちた表情で俺の顔をじっと見つめた。
「携帯、見ました?」
「いや、見ていない」
「えー!!なんで見てないんスか」
何故、責められなければならないのだろうか。 俺は人の携帯を覗き見るような趣味など無いのだともう一度、 今度は強めに言ってやれば、赤也が酷くがっかりしたように肩を落とした。

だが、俺は帰りの電車の中で、赤也の携帯を見てしまった。もちろん、わざとではない。 満員の電車の中、赤也は携帯を開いて画面を見ていて、俺はたまたま赤也の斜め後ろに立っていたのだ。 赤也よりも身長が高い俺には、携帯の画面はあっさりと見えてしまう。
それで、俺は全てのことを理解した。赤也の不可解な言動が、赤也が何を俺に期待していたのか、わかってしまったのだ。
目的の駅に着き、電車を降りた俺たちは並んで帰路につく。 赤也はとりとめのないことを一生懸命になって俺に話しかけていて、 俺はふいに赤也の言葉をさえぎるように声を発した。
「赤也、携帯の画面の子は、誰だ?」
「で、そんとき……って、え?柳さん、いま…」
聞こえていなかったわけではないだろうが、俺の言葉を一瞬理解できなかったのだろう。 目を丸くさせた赤也は、すぐにさっきの言葉を理解して、「いつの間に見たんスか!!」と声をあげた。
「ついさっき、電車の中でだ。わざと見たわけじゃないからな。 それと、その画面の子は大方お前のクラスメイトの女子だろう? わざとそんな写真を撮って、俺に見せたかった。違うか?」
「……なんでそんなことまでわかるんスか」
「それだけじゃない。きっと、お前はその女子に『彼氏が自分の携帯を盗み見ている。 浮気を疑われている』なんて言う話を聞かされたんだろう。それで、自分も浮気を疑われてみたいと思った。 だからわざとそんな写真を撮って、見つかりやすいように携帯の待ち受け画像にした」
「ちょ、なんでそんなことまで!?」
「この間、クラスの女子に恋愛相談をされていると話していただろう?なんとなく、 そうじゃないかと思っただけだったが…当たりか」
思ったとおりだと笑ってやれば、赤也は悔しそうにして俺を睨み付けた。その反応も思った通りだ。 言えばへそを曲げてしまうだろうから、言わずにいたが。
「あーぁ…つまんねー!柳さんに浮気を疑われてみたかったのに!」
「…敢えて修羅場を味わいたいのか?俺は、お前と喧嘩なんてしたくない」
「喧嘩したいっつーわけじゃないんスけどね…」
じゃあなんだというのだろう。さっぱりわからない。どんな数学の問題よりも、時に赤也は難解になるのだ。
「まぁ、お前が浮気する確率は1%にも満たないから、そんな日は永遠に来ないだろう」
もちろん、自分にだって浮気する確率は無いのだと言ってやれば、 赤也が馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、足を止めて立ち尽くしていた。 それに気付かずに赤也の数歩先を行っていた俺も足を止め、動かない赤也を振り返る。
「どうした、赤也」
「いや、俺って、超愛されてるなぁって思って」
なんだ、いまさら知ったのか。