君が落ちた日



赤也が柳の不在に気づいたのは、練習が始まってすぐだった。
自分のフォームのことで話したいことがあったのだが、姿が見えない。 珍しく遅刻だろうかと考えていたが、しばらくしてもまだ姿が見えないので、 これは変だと思って赤也は部長である幸村に訪ねることにした。
「今日、柳さんていつ来るんすか?」
訊ねると、幸村は目を丸くして赤也を見た。
「蓮二なら昼に早退したけど…聞いてないのか?」
幸村の言葉は赤也を酷く驚かせた。聞いていないし、早退とはどういうことか!慌てる赤也に、 しかし幸村は非常に落ち着いていた。
連絡がそっちまで回らなかったんだなぁとか言っているので、 赤也はじれったくて仕方が無かった。そんな事はどうでもいいから、柳が早退した理由を聞きたいのだ。
「あぁ、階段から落ちたんだよ」
「階段から!?」
「って言っても、三段目くらいからだけどね。本人は少し足を擦り剥いただけだって言ってたけど、 真田が頭を打ったかもしれないから病院に行けとかうるさくって。で、結局保健室に行ったらそのまま早退になったんだ」
その口ぶりからすると、どうやら本当にたいした事はないようだが、それでも赤也は安心できない。 もし真田の言う通りに頭でも打っていたら一大事だ。どこぞの誰か見たいに記憶喪失になられても困る。
「大丈夫だよ、心配ないさ」
そう言って幸村は、赤也を練習に戻らせた。部長に練習に戻れと言われれば、そうするしかない。 けれど赤也の心には不安が渦を巻いていた。
どうしたって柳のことを気にしてしまう。 本当は頭を打っていたりして、今頃大変な事になっているんじゃないかとか、 悪い方向にばかり思考が行ってしまうのだ。練習に身の入らない赤也にすぐに気付いた真田はそんな彼を叱り飛ばした。
「赤也、たるんどる!!」
「…すんません」
「真田、赤也は蓮二が心配なんだよ」
何も理由無く不真面目にやっているのでは無いのだと、幸村が助けに入ってくれた。 そのことに赤也がほっとする。真田は、さすがに柳を心配している赤也を怒れるはずもなく 「むう…」と言ってどうするかを考えあぐねいているようだった。
「俺たちも蓮二の様子が知りたいし…赤也、今日はもう終わりにして蓮二の見舞いに行ってくれないか?」
その提案に真田も赤也も驚く。けれどこんな状態のままで練習をしても意味が無いのは事実だった。 ならば赤也を見舞いに行かせ、自分たちに蓮二の様子を報告させたほうが良いという幸村の判断に真田は 「そうだな」と同意する。
真田も無理やり帰らせただけあって、蓮二のことは心配だったのだ。
「じゃあ行ってきます!!」
瞳を輝かせて意気揚々と帰る赤也を見て、「俺も参謀が心配じゃのう…」 と言って自分も帰ろうとした仁王に真田の雷が落ちた。


赤也が柳家の玄関で呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは彼の姉だった。
早退した先輩が心配で見舞いに来ました、と使い慣れないきちんとした敬語で頭を下げれば、なんと良い後輩を蓮二は持ったのかと過剰なまでに喜ばれ、赤也は照れた。 母親でもここまで褒めてくれるものかと言うくらいに褒められながら、赤也は柳の部屋に通された。
そう言えば部屋に上げて貰うのは初めてだなと思いながら、赤也はやや緊張しつつ柳の部屋の扉を開けた。
開口一番に言われた言葉は
「…君は、誰だ?」
だったので、赤也は絶望した。恐れていた事が起こってしまった…!と頭を抱えかけたのだが、 すぐに柳がおかしそうに笑いながら「嘘だ」と訂正を入れたので、赤也はすっかり脱力してしまった。
世の中についていい嘘と悪い嘘があるのなら、今の柳がついた嘘は確実に悪いほうであると思った。 不機嫌そうに唇をへの字に曲げる赤也に、さすがに柳も悪いと思ったのか「すまない」 と申し訳なさそうに誤るので、赤也には許してしまうしかなかった。惚れた弱みなので仕方が無い。
「あの、頭大丈夫っスか?」
聞きようによっては非常に失礼な言葉であったが、柳は赤也が自分を心配してくれていると言うのは よくわかっていたので、あえてそこに何も触れずに「大丈夫だ」と答える。 柳の言葉に、赤也が目に見えてほっとしたように表情を和らげた。
「マジでビックリしたんスからね!」
「弦一郎が大げさなんだ。別に頭を打ってもいないのに…おかげで退屈だ」
眠くもないのに布団に入っていろと言われ、よっぽど暇だったのか枕元に読みかけの小説が置いてあった。
「副部長も心配だったんスよ」
「そうか…」
「もちろん、俺もっス!」
えへんと胸を張る赤也に、けれど柳は困ったように眉根を寄せる。
「ふむ。だからと言ってサボりはよくないぞ?」
どうやら柳は、赤也が心配の余り部活をサボって見舞いに来ているのだと思っているようだった。 慌てて赤也がそれは違うと誤解を解く。
きちんと部長に言われて来たのだと言うと、それはすまなかったと笑った。
「…柳さんいないとつまんないんで、明日ちゃんと来てくださいね」
「どうかな?明日になったら記憶喪失になってるかもしれない」
「ちょ、そう言う冗談マジで勘弁……」
がっくりと赤也が項垂れる。ふいに沈黙がその場を包み、赤也が顔を上げると柳がじい、と赤也を見ていた。 見つめられている、と思うとやけに気恥ずかしく、赤也はそろりと柳から視線を外す。
「…なんで見てんスか」
「いや、お前が見舞いに来るとは思わなかったな、と…」
「や、そんなじっと見るのやめてくださいよ」
それでも柳は赤也を見つめている。きっと面白くなってきたのだろう。赤也にはそれが少し腹立たしかった。 先ほどの悪い冗談への怒りもふつふつと湧き上がってくる。
「あんま見てると、キスしますよ」
赤也の警告に、けれど柳は何も言わずに視線もそのままで見つめ続けてきた。なのでこれは了承の意味だと取って、赤也は柳にキスをしたが、別に怒られもしなかった。どうやら赤也の判断は間違っていなかったらしいので、赤也は怒っていたことなどすっかり忘れて、にんまりと笑うのだった。