きみはぼくをゆるしてくれる


「深司、行くぜ!」
そう言って神尾が伊武の手を、有無を言わさず掴んで走り出す。それはよくあることであったが、だとしても驚かないわけはないのだ。それに、腹立たしく思わないわけでもない。 渋々神尾の走るスピードに合わせて伊武も走り出すものの、その口からぼやきは止まらない。
「まったく、何でいっつもこっちの返事を聞かないんだろう。嫌だよなぁ、俺だって予定があるし、アキラみたいに暇じゃないのに。って言うか手を掴んで急に走り出して俺が転んだらどうしてくれるの。怪我したら絶対に責任取ってもらうからね」
人ごみの中を走っているのにそんなにぼやくものだから、呼吸は苦しくなるし、本当に転びそうにもなって、伊武は思わずバランスを崩すが、転んでしまうよりも早く神尾が伊武の体を支えた。
「なんだよ、深司。大丈夫か?」
「…誰の所為だと……」
と呟いて、しかし伊武はそれ以上言うのをやめた。神尾はきっと伊武のぼやきなんて聞いていなくて、だから自分が悪いとも思っていないのだろう。
それに、その楽しそうな顔を見たらすっかり毒気を抜かれてしまったのだ。
「ねぇ、どこ行くの?」
「んー、別に考えてない」
考えてないのに、何を急いでいたのか。伊武には神尾の思考は理解できなかった。それよりもそろそろ掴んだ腕を離して欲しくて、ぶんぶんと力を入れて振ればようやく気付いたように、神尾は「わりぃ」と言って手を離した。 が、すぐに今度は手のひらを握り締められた。
「…なにこれ」
「ん?」
伊武は、何も腕が嫌だから手のひらにしろと訴えたわけではない。なのに神尾はそう受け取ってしまったようだった。伊武はもう一度手を振る。
が、神尾は首をかしげるばかりだ。やがて、根負けした伊武はあきらめるという結論に達した。
「…とりあえず、お腹減ったんだけど」
「お、じゃあ氷帝んとこでたこ焼き売ってるみたいだから行こうぜ!」
そう言って神尾はまた断りもなしに走り出そうとしたので、伊武はなんとか足を踏ん張らせて引き止めると、「歩け」と呟いてそれを阻止するのに成功した。


氷帝の屋台につくと、そこには数人の生徒に混じって知った顔がいた。
テニス部二年の日吉若がせっせとたこ焼きを作っている。なかなか手つきがいいな、と神尾が感心したように呟くと、その声に気付いたのかぱっと顔を上げた。
「あぁ、あんたらか…」
「たこ焼き、二人前くれよ!」
「はいはい」
一人前を二人で分けるには、育ち盛りの中学生男子には少し足りないので二人前を頼む。日吉はやる気なさそうに返事をして、焼けているたこ焼きをパックに詰める。態度とは反対にその手つきにはやる気のようなものが感じられた。
「ところでさぁ、七不思議は調べてみたの?」
伊武がふいに日吉に声をかける。それを聞いて、神尾は珍しいと目を丸くした。
「あぁ、あれか。結構調べたな…。でも13階段はまだだ」
伊武は基本的に、何においても自分から行動を起こさないタイプだ。 話しかけられたら話す。やられたらやりかえす。 だから伊武が自ら進んで誰かに声をかけると言うのも珍しい。 と言うより、いつの間に日吉と仲良くなったのか。神尾の知らぬ間に築かれた交友関係に、神尾はなんだか面白くないと思ってしまった。 伊武のすべてを把握しようだなんておこがましいけれど、知りたいと思うのだ。
「あぁ、そうなんだ。俺は13階段は調べたけど他のは調べてないんだよね。て言うか、調べようと思ってたらいきなり神尾に拉致られたんだけどね」
「そうか。まぁ、お互い楽しみにしておくとするか」
そうして二人揃ってにやりと笑うその顔はどこまでもヒールだった。
話しながらも日吉の手はてきぱきと動いていて、たこ焼きが詰め込まれたパックを二つ手渡される。礼を言って代金を渡すと、一人分で構わないと言って日吉は半額を返してくれた。それに礼を言って神尾は伊武の手をひき、さっさと歩き出す。また、と伊武はぼやこうとしたが、神尾の横顔がどこか不機嫌そうだったので何も言えなかった。


どこかで腰を落ち着けて食べたいと言ったのは伊武だった。
だが、空いているベンチがどうにもない。其処此処に人が居て、落ち着いて食べれるところなど見当たらなくてどうしようかと思っていたところで、神尾が何かに気付いたようにずんずんと歩き出した。伊武も黙ってそれについていく。
神尾が向かったのは、氷帝のど派手に飾り付けられた「ここはどこの高級レストランだ」と思うほどのカフェの建物の裏だった。
表はもちろん行列を作る女子達でいっぱいだが、意外にも裏には人気が無く、文化祭の喧騒が嘘のように静かだった。 服が汚れるのを気にする女の子でもないので、伊武と神尾は適当な場所に座り込む。
「…ねぇ、なんか機嫌悪いの?」
わけがわからなくて困るんだけど。と伊武が言えば、神尾はとてつもなく微妙な顔をした。困ってるような、でも怒っているとは違うし、照れているともまた別だ。
「なにその顔。気持ち悪い」
「気持ちわるっ!?…ひどいじゃねぇかよぅ、深司…」
今度は伊武にもわかった。今の神尾の顔は、落ち込んでいる顔だ。
「はいはい、すんまそん」
適当に謝ってやれば、神尾は納得いかないように頬を膨らませる。なにそれ可愛くない、と伊武は言いたかったが、面倒くさいことになるのでやめた。
「深司ってあいつと仲いいのか?」
「…あいつって……あぁ。別に、普通じゃない?俺と誰かが話してるのがそんなに珍しい?」
「べ、別に!俺はただ聞いてみただけだろ!」
神尾は焦ったようにそう言って、輪ゴムで止められたたこ焼きのパックを開けるとばくばくと食べはじめてしまった。けれど、たこ焼きと言うのは、普通に中身はそこそこ熱いものだ。
「あづっ!!」
思った通り、神尾は涙目になってしまって、あらかじめ買っておいたペットボトルのお茶を急いで口に含んだ。
「…なにやってんの」
「うう……舌、いてぇ…」
呆れる伊武に、神尾は「見てくれ!」と言わんばかりに自分の舌を出して見せてくるのだが、あいにく伊武にはよくわからなかった。はぁ、と一つため息を吐いて、それからまだぶつぶつとぼやく。
「まったく…なんなんだよ。それってヤキモチなの?勘弁してほしいよなぁ。ほんと、自分のほうが俺より友達多いくせにさ…。あーぁ、俺がなんでこんなことしないといけないんだろう。でも、このままにしといても面倒だしな。ほら、口あけてよ」
ひとしきりぼやいて、伊武は爪楊枝でたこ焼きを一つ刺すと、わざわざ息を吹きかけて冷ましてから神尾の口元に近づけた。 涙目の神尾が馬鹿みたいに呆けているので、伊武は少し面白くなった。
「多分もう熱くないから。ほら、早く」
「お、おう!」
差し出されたたこ焼きに神尾がかじりつく。それからもぐもぐと租借して、にかりと笑った。あぁ、単純だなぁと伊武は思う。だけど伊武は神尾のそこが好きなのだ。
「機嫌、直った?」
「んー……。深司ぃ、ごめんな。俺、なんか…」
「あぁ、もう、いいから。食べよう」
すると、神尾はあーんと言って口を大きくあけて伊武のほうを見た。そのあーんの意味するところに気付いて、伊武はぺちりと神尾の額を叩いた。
「もうだめ」
「えー、いいだろ深司ぃ!」
神尾がしつこくねだるのを伊武は拒否するが、このやり取りがあと数回続けば伊武が折れることを、神尾は知っている。
やれやれと、仕方ないなぁという顔をして、けれど必ず神尾を甘やかしてくれるのだ。神尾は伊武のそういうところが、好きなのだ。